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愛の夢

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藤崎悠貴
   愛の夢

 だれかの声。
 息を潜める。

「――遅くなっちゃったね。まだ門開いてるかな?」
「ねえ、それより知ってる?」
「なあに?」
「この音楽室、だれもいないのにピアノが鳴るってうわさ」
「えー、そんなことないよ。小学校じゃないんだから。ほら、いまだって、なんにも鳴ってないじゃん」

 鍵盤に乗せた指先がすこしふるえる。
 いま低音のドを押しこめば彼女たちは驚くだろうな、と思いながら。

「それは、ほら、幽霊にも気分があるんじゃない? いまはピアノなんて弾きたくない気分なのかも」
「どういう気分なの、それ」

 笑い声が遠ざかっていく。
 外から見えないようにピアノの上に身体を伏せていたわたしはちょっと顔を上げる。
 茜色の音楽室。
 壁にかかったベートーベンの絵さえ恥じらっているような。
 先生。
 先生の横顔が赤く照らされ、浮かび上がって見える。

「――行ったみたいですね」
「ああ、そうだな」
「続き、弾きましょうか」
「うん――頼むよ」

 フランツ・リストの愛の夢。
 またはじめから、あのぽつぽつとこぼれるような物悲しい音を辿る。
 テンポは指定されているよりもずっと遅くて、つまったり、間違えたりしながらすこしずつ進む。
 先生はピアノの音を聞いているような、聞いていないような、ぼんやりした顔で音楽室を見回していた。
 きっと先生は探しているんだ、お姉ちゃんの姿を。
 いまはもうどこにもいない、先生の恋人の姿。
 まだ先生がこの学校の学生だったころ、ふたりきりでそうしていたように――お姉ちゃんがピアノを弾いて、先生がそれを聞いて。
 音がにじんでいく。
 茜色に染まって、絨毯敷きの床に落ち葉のように転がる。
 手を止めたのは、情熱的に音が広がるすこし手前、まだ悲しく押し殺された場所。
 どちらが夢なんだろう、この物悲しい旋律か、激しくせり上がるような旋律か。
 夢から覚め、またまどろみへ帰っていくのか。
 それとも高まった愛を覚ますように青く冷たい夢へ潜っていくのか。
 先生は。
 先生はまだ夢のなかにいる。
 手を止めてしばらくして、ふと音がなくなったことに気づいたような顔で先生が振り返る。

「どうかしたのか?」
「いえ――先生、わたし、ピアノ一生懸命弾きました。ご褒美にキスしてくれますか」

 先生は笑う。

「おれとおまえは、教師と生徒だ。おれを辞めさせたいなら、直接そう言ってくれ」
「じゃあ先生、もっとうまくなったらキスしてくれますか。お姉ちゃんより、ずっとずっとうまくなったら」
「おまえはおまえだ。だれかと比べる必要なんかない。ピアノが好きならたくさん練習するといい。おれも応援するよ――そろそろ帰ろうか」
「――はい、先生」

 先生はまだ夢のなかにいる。
 お姉ちゃんはもういないのに。
 わたしがお姉ちゃんを殺したのに。
 お姉ちゃんがいなくなったら、代わりにわたしを愛してくれると思ったのに。
 先生はまだ夢のなかにいる。
 お姉ちゃんが奏でる愛の夢のなかに。
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藤崎悠貴
Posted by藤崎悠貴

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